最近よく「多様性」という言葉を耳にする
「多様性の認められる社会を目指す」などと使われる
ある分野というか場面というか
ある文脈で使われる「ことば」が流行ると
さまざまな場面で用いられ
本来の使われ方と離れていってしまうことがある
先日TBSラジオのある番組で耳にした
パーソナリティはキニマンス塚本ニキさん相手方の若林佑真さんの問題提起による会話です
SNS上の「同性愛を否定する意見を否定する意見は多様性に反する」
という意見にモヤモヤするというはなし
「次元」の異なるものが「ごちゃまぜ」のまま
会話をしているので議論が「意味不明」になってしまう
「多様性」「人権侵害」「誰かを傷つける」「思いやり」…
こんな言葉が飛び交う、モヤモヤしました
ここでいう「多様性」という言葉は
「人権」という文脈で使われてはじめて意味を持ちます
「多様性を認める」とは「多様な人々の人権を認める」ことに他ならない
「同性愛者の人権を否定する」ということは
「多様な人々の人権を認める」ということと反対を意味するので
ここでいう「多様性」という言葉の意味するものではないのです
惑わされてはいけません、言葉使いとして「ヘン」ですよね
「同性愛を否定する意見」もそれを否定する意見も
「多くの」意見のうちの一つである、ということにすぎません
それは誰も否定しません
せっかく大切な問題意識なのですから
別次元のはなしとして切り分けた上で
そのような意見を持つことはどうか?意見を表明するのはどうか?とか
SNS上で言うのはいかがか?言葉遣いはどうか?
誰かを傷つけているのではないか?思いやりがないのでは?
という「議論」をしないと「ごちゃまぜ」になって
はなしの筋が「うやむや」「ぐずぐず」になってしまいます
「人権」のはなしは「思いやり」とは次元が異なります
いわゆる「先進国」「近代国家」の「基本的価値」の問題なのです
(同性愛者の)「人権」は
誰かの「思いやり」や「配慮」によって認められるものではありません
生まれながらにして持っているものなのです
それを不愉快に思う者の不利益は受忍せよ
という考え方なのだということです
私たちはこの考え方を採用している「はず」なのです
ですから「多様性を認める社会」とは
「不愉快を広く浅く受忍する社会」です
これまでより不愉快に思う人が増えるかもしれないのです
「人権」とはそのような「思想」なのです
さきほどの
「同性愛を否定する意見を否定する意見は多様性に反する」
という議論の立て方(「なぞ議論」と呼びましょう)は
「意図的」に言っている場合と
「無教養」からなっている場合がある気がします
気を付けないと巻き込まれてしまいます
きちんと切り分けることが大切だと思いました
世話人、記
日本国憲法
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。